Fiache. Short Story
― なんでもない日の物語 ―

さよならは言わない

 防波堤の上を器用にバランスを取りながら、彼女は私の前を歩いている。夕日に照らされて輝く黒髪が、冷たい潮風になびいた。赤いマフラーを揺らしながら、彼女は一歩一歩、確かめるように歩いた。
「来週引っ越すんだよね」
 世間話の延長上に放り投げられた言葉は、ゆるやかな波音に混りあって溶けていく。
「へえ。どこ行くの?」
「アメリカ」
 思わず足を止めると、それがわかっていたかのようなタイミングで彼女も足を止めた。あめりか。アメリカ。脳内で何度も反芻して、ようやく言葉の意味を理解できた。
「あ……アメリカ」
「そう、アメリカ」
「引っ越す?」
「うん、引っ越すの」
「いつ?」
「来週」
「らいしゅう……」
 ぱくぱくと口を金魚みたいに開け閉めさせている私の姿が面白かったのか、彼女は小さく微笑んだ。
「初耳なんだけど」
「急に決まったから。私も昨日知ったし」
 手を後ろに組んで、くるりと海の方を向いた彼女の表情はわからない。しかしどこか投げやりにも聞こえる声音からは、彼女にとってそれが不本意であることがうかがえる。強い風が吹き、海が激しく波打った。防波堤に当たった飛沫が飛んで、呆然と立ち尽くす私の足元を濡らす。
「だからお別れだね」
 そう言って彼女は笑った。なにも面白いことなんてないのに。私はずんずんと大股で歩いて距離を詰め、驚いている彼女の両手を掴んだ。
「行きたいところが、あるんだけど」
 ずい、と顔を寄せる。真っ黒な瞳が数度瞬いた。
「付き合ってくれるよね」
 有無を言わさぬ私の雰囲気に気圧されたのか、彼女は零れそうなほど大きく目を見開いたまま、小さく頷いた。

「ねえ、どこに行くの」
 彼女の手を引いてもくもくと歩く。さっきまで歩いていた道を引き返して向かう先は、学校の裏庭だ。そこで見せたいものがあった。私は彼女の問いに答える代わりに、繋いだ手を強く握る。不安そうな彼女だったが、それでも私の手を振りほどくことはなく、同じくらいの力で握り返してきた。
 学校の裏庭は草木が伸び放題で生い茂っており、かつ常に薄暗いためあまり生徒は寄り付かない。だから私は一人になりたいときはよくここに来ていた。伸び放題の草木を掻き分けて、何も考えずにただぼーっと座り込む。ただそれだけの、私のお気に入りの場所。ここに誰かを連れてくるのは初めてだった。
「見て」
 振り返り、彼女に前に来るように促す。おずおずといった様子で私の隣りに立った彼女は、眼前に広がる白い花の群生に目を輝かせた。
「わ、かわいい」
「ヤツデって言うんだって」
 しゃがみこんで丸い花に触れる。
「花言葉は“健康”、“分別”、“親しみ”。ねえ、」
 私は取り出したスマートフォンで何枚か写真を撮った。花と、空と、それから内カメラに切り替えて、花を背景にツーショット。不器用な、ちょっと失敗した二つの笑顔が画面に映っている。私は慣れた手つきでそれらを彼女の携帯に送信した。
「これを見て、私を思い出して。離れ離れになっても私たちはずっと友達。それに一生会えなくなるわけじゃない。また一緒に、この花を見に来よう。それで、また一緒に写真撮ろう。約束」
 小指を立てて差し出せば、彼女は力強く頷いて、小指を絡めた。

「なんか、ちょっと花火みたい」
 愛おしそうに花を撫で、彼女は笑う。咄嗟に構えたカメラで写真を撮れば、彼女はむっと唇を尖らせる。そのどこか幼い表情が面白くて、私は声を上げて笑った。

+++

 彼女が飛び立つ日、私は空港まで見送りにいった。向かい合ったまま互いに何も言わない。あたりはザワザワと騒がしいのに、二人の周辺だけがまるで時が止まったように静かに感じられた。
 アナウンスが聞こえる。時間だ。私はようやく顔を上げた。伝えたいことは、ただ一つだけだ。
「またね」
「うん、また」
 彼女の姿が見えなくなるまで、私はずっとその後ろ姿を見つめていた。

ゆきこFiache.編集部

Fiache.編集部。冬生まれで好きなひらがなは「ゆ」。趣味は読書、ゲームなど。三度の飯より寝ることが好きで、隙あらば寝ている。もはや睡眠が趣味といっても過言ではない。

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