Fiache. Short Story
― なんでもない日の物語 ―

おいで

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 雨。雨だ。燦燦と日の光が降り注ぐ中、ぽつり、ぽつりと細かい雨粒が髪を濡らす。天気雨、狐の嫁入り。あとは何だっけ、なんてのんきに考えていれば、途端にバケツをひっくり返したような豪雨に変わり、慌てて駅に駆け込んだ。駅の近くでよかった。以前ゲリラ豪雨に遭い、服を着たままシャワーを浴びたような姿で出社したときに比べれば、この程度なんてことない。
 ハンカチで簡単に水滴を拭ってから改札を抜ける。ここはホームにたどり着くまでにいくつものエスカレーターを下っていかなればならないのが少し面倒だ。駅に着いてからホームまでの時間を考えて家を出なければならないから。
 スマホ片手に無心でエスカレーターに乗って、降りてを繰り返す。そうして何度目かのくだりエスカレーターに乗ったところで、ふと顔を上げた。
 ……こんなに多かったっけ?
 ホームに行くまでに時間がかかるのはわかっていたが、こんなにも下る必要があっただろうか。不思議に思ってあたりをきょろりと見まわしてみるも、自分以外に人はいない。この時間に?
 地下鉄特有の薄暗さと、人っ子一人いない静けさに背筋が粟立つ。なんだろう、何かがおかしい気がする。
 このまま進むべきか、引き返すべきか。逡巡して、もう一度スマホを見る。電波は立ってる。ネットは問題なく使えるし、試しにSNSを投稿してみたが異常なし。
 何より、改札を抜けてからまだ3分しか経っていなかった。いつもより長く感じたのは気の所為だったようだ。人がいないのは、まあ偶然だろう。
 引き返したら遅刻は必至だ。そのまま進むことにした。
 ただ、いまだに漠然とした違和感が晴れず、今度はスマホをしまって不自然にならない程度に周りを見ながら降りていく。スキー場、痴漢撲滅、大学案内……、ありふれたポスターが流れていく中、やはりどこか違和感を覚えた。このいつもと違う静けさが非日常を感じさせているのだろうか。
 違和感の正体を掴めないまま、次のエスカレーターに乗るとその先にホームが見えた。スマホを確認すると、電車が来る3分前。いつもと同じ時間だった。
 なんだ、やっぱり気のせいじゃないか。
 人がいないのが多少気がかりではあるが、とりあえず落ちていて黄色い線の内側、電車を待つ。スマホの画面に視線を落とし、SNSをチェック。
 ……。
 …………。
 ………電車はまだだろうか。
 スマホの時計は到着予定時刻をとうに過ぎている。前の駅で何かあって遅延しているのかもしれない。顔を上げると、向かいのホームに人影が見えた。駅に入ってから初めて見た人の姿に、思わずほっと安堵の息を吐く。自分以外に誰かがいるというだけでこんなにも安心するなんて。しばらくぼう、と人影を見つめてはっとする。こんなにじろじろ見つめては失礼だろう。慌てて下を向いて、そういえばとスマホで遅延情報を確認した。
 めぼしい情報は見つけられず、首をかしげる。おかしいな。向かいのホームにも電車が来る気配はない。
 違和感が、再びむくむくと鎌首をもたげた。
 ……いや、今日は特別ダイヤとかで時間が変わっているのかもしれない。自分の確認不足だっただけで。わずかな希望を胸に、電光掲示板を見上げる。
 ぶわ、と全身に鳥肌が立った。
 そこに書いてあったのは、確かに到着予定時刻と、行先と、ホームの番号。それなのに、書いてある文字がまったく読めなかった。そう、そうだ。先ほどポスターを眺めていた時の少しの違和感の正体。あれは、何が書かれているのかはわかるのに、読めなかったのだ。
 理解した途端、吐き気がこみ上げて咄嗟に口元を抑える。その場にしゃがみ込んで、荒い呼吸を繰り返していると、向かいのホームの人影が動いた。
 こちらを見ている。ゆったりとした動作で手を胸の高さに上げ、こちらに向けてその手を振った。

 次の瞬間、弾かれたようにもと来た階段に向かって駆け出していた。
 息が切れるのもお構いなしに、必死に階段を駆け上る。決して振り返ってはいけない。本能的にそう感じて、なりふり構わず走る。走る。走る。ただ、走った。

 燦燦と降り注ぐ太陽の光が眩しくて、思わず目を瞑る。いつの間にか、地上に戻ってきたらしい。賑やかな喧噪に張り詰めていた糸が解けて、ずるずると座り込んだ。
 空を見上げる。雲一つない、冬らしい晴天。雨は降っていなかった。それどころか、地面が濡れた形跡もなかった。

ゆきこFiache.編集部

Fiache.編集部。冬生まれで好きなひらがなは「ゆ」。趣味は読書、ゲームなど。三度の飯より寝ることが好きで、隙あらば寝ている。もはや睡眠が趣味といっても過言ではない。

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